どうもGin8です。
はてなブログを始めて2ヶ月ほどになりますが、たくさんの方々にブログを読んで頂き、コメントやブックマーク等もたくさん付けて頂いて本当に嬉しいです。今回は僕自身についての生い立ちや、ブログを始めてみたいと思った事を書いていこうと思いますので読んで頂けたら嬉しいです。
目次
- 中学校に進学して野球の全国大会に
- 高校は推薦で
- 大学で初めて県外に
- 初めての就職は野球で
- 初めて野球以外で仕事を始める
- 人生の転機
- 離婚を経験
- パニック障害を乗り越えて
- 免許更新を忘れる
- 人生が変わる出会い
- ブログを始めたきっかけ
- ブログ名の由来
僕は1985年8月16日生まれの34歳です。
2人兄妹の長男で、生まれも育ちも鹿児島、今も地元鹿児島で過ごしています。小さい頃から野球選手に憧れて、小学校4年生の頃に野球を始めました。
コントロールには自信もあり、野球の花形であるピッチャーをこの時から希望して、野球人生はピッチャー一筋で送る事となります。
ヤンチャだった僕も野球を通して礼儀作法を学び、たくさんの友だちができました。
中学校に進学して野球の全国大会に
中学校に進んでも野球を続けました。
小学校は小さい田舎の学校だったのですが、中学校は大きな学校で、野球部に入る人もたくさんいた事でお互いに切磋琢磨して辛い練習にも耐える事ができました。
練習を継続していくことで身長も伸び、中学校の3年でやっとレギュラーになる事ができました。
何事もやり続けることで目標は成し遂げられるとその時に感じ、継続することの大切さを知りました。その時に初めてもらった一桁番号の「4」番は今でもいい思い出です。
その結果、出場する大会では優勝旗や準優勝旗、たくさんの賞を取る事ができました。
最終的には全国大会に出場。
当時の横浜スタジアムで試合をする事ができました。
結果はベスト8でした。
高校は推薦で
中学校の全国大会に出場することで、高校も推薦をいただく事ができました。
初めて硬式野球を始め、ますます挨拶に厳しさを増します。
また、高校野球といえば坊主です。今思えば、これ以降に坊主にする事はないですね。
貴重な良い経験ができたと今でも思いますし、中学校でたくさんの大会を経験する事ができた事で試合には2年生の時から出させていただけました。
結果が中々出ない高校生活でも苦しんだ分だけ、今のくじけない精神を培う事ができているのだと僕の中では思っています。
最終的にはベスト16が最高の結果となりました。
大学で初めて県外に
高校の時は中々結果がでないでいたのにも関わらず、大学も推薦で入学させて頂けました。この時に初めて地元鹿児島を離れ、大分県にいく事になります。
初めて自分の足で鹿児島から出る事で、県外から集まる野球人と出会い、様々な県の練習法や、各県の言葉やイントネーションに驚きました。
身体能力の違いも目の当たりにして、部員数も一気に倍増!
2〜300人ほどいる人数の中でレギュラーを争う事となります。
たくさんの人数がいる事で、様々な性格の人と関わる事ができました。
人間って同じような感性を持っている人はいますが、全く同じような人が中々いないのも面白いと感じました。
また、初めて親元を離れ一人暮らしをする事となりますが、この時に毎日の洗濯や自炊、掃除といった生活を送るにあたって必要な事も全て自分でしなければなりません。
どんなにしんどいと思っていても、どんなに体調が悪くても、毎日しなければならないのです。
母親は毎日、仕事をしながら家事もしてくれていました。
どれほど大変な事なのか、実際に一人で生活する事で身にしみて感じる事ができ、今でもその時の事は肝に応じて、自分のことくらいは自分でするようにしていますし、母親がしんどい時には手伝いをするようにしています。
仕事と家事の両立を知る事ができる良い機会で、こういった経験があったからこそ、今でも誰かの支えがあることって嬉しい事なのだと感じます。
大学もありがたい事に、メンバーに入れていただき、九州大会にも出場できました。
その時に行われた会場、ヤフードームのマウンドに立てた感動は今でも忘れません。
しかし、その後の練習中にボールが頭に当たり、急性緑内障を発症してしまいます。
初めての就職は野球で
大学での結果もあり、社会人でも野球をする事ができました。
しかし、お金をもらって野球をすることの厳しさ、会社を代表して試合に出る事の大変さに本当に苦労しました。
その際に発症していた緑内障の進行で、今までがんばってきた野球をやめなければならない事となります。
たった1年ほどの社会人野球生活にピリオドをうちます。
初めて野球以外で仕事を始める
今までがずっと野球ずくめの生活を送っていた僕にとって、これから先の生活が全く予想できず、とりあえず緑内障の勉強がしたいと思い眼科に就職させてもらいました。
野球以外の事をする事が初めてで、本当に仕事をするって大変な事だと感じました。
野球をしていた事で挨拶はできるものの、患者さんに対する言葉遣い、対応の仕方、電話といった、全く経験のない事に戸惑いました。
しかし、眼科で働く先輩方はみな優しく、対応の下手な僕にも優しく丁寧に教えてくださり、時間を作って指導してくださいました。
もちろん社会人としての厳しさも教えていただき、今では眼科で働けた事に感謝しています。
人生の転機
緑内障のこともある程度勉強ができた時に、僕は転職する事となります。
まさにこれが僕の人生の転機。
今でも好きで働いている印刷業に出会います。
募集をしていないにも関わらず、その会社は実家の近くということもあって自分から履歴書を持って会社の門をたたきました。
始めは小さい会社でしたので、人も中々確保できないでいたにも関わらず、そこの会社の社長が「自分から履歴書を持ってくるとは面白い!面接に来なさい」と言ってくださった事でそこの会社で働く事ができました。
本当に入社当初は仕事もなく、コツコツ目の前にある仕事をこなす日々。
それでも社長をはじめ、会長や奥様にはよく声かけをいただき、毎日明るく振る舞ってくださりました。
この時には会社が危ないと言う事は知らず、何気ない経営者の対応に、一生懸命答えようと言った気持ちだけでこの危機を乗り越えられたと思います。
今でもこの会社の社長には感謝してもしきれません。
そして社長以外にも1人信用できる人間ができました。
彼とは公私ともにいろいろな話をして、強い信頼関係で結ばれていました。
そんな中、その彼から会社を辞めて新しいことにチャレンジをしようと言う話を提案されました。
お世話になった会社を退社する・・・・
それはお世話になった社長を裏切ることになってしまいます。
とても悩みましたが、自分や彼の人生、そして希望に満ちた未来を夢見て2人で退職を決意しました。
しかし、なぜか退職扱いになったのは僕だけで、その同僚はそのまま会社に残ることになっていました。
後で聞いた所によると、どうやら会社内では「僕がその同僚を誘って会社を辞めようとし、同僚は社長のために会社に居残った」ことになっていたそうです。
当然社長は僕に対して非常に怒っていたようで、それ以来社長とは話をしていません。
結果、僕はお世話になった社長と、信頼していた仲間を2人同時に失ってしまいました。
しかし、僕は2人に今でも感謝しています。
社長がいなければ大好きな印刷業に出会えず、その同僚と会えなければ充実した日々を過ごせなかったハズだからです。
今でこそ連絡を取れない関係になってしまいましたが、またいつか笑って彼らと再会できる日を願っています。
離婚を経験
僕は1年前に離婚をしています。
離婚というとなんか寂しい感じもしますが、そこからたくさん学んだことも多いです。
過ぎてしまえば、夫婦お互いもっとちゃんと話をしておけば・・・・。
子どもたちをもっと大事にしてあげていれば・・・・。
たくさん会話をしていたらって思うこともたくさんあります。
もちろん、たまに子どもたちとお出かけをしたりできているのでその時には名一杯の愛情を注いであげるようにしています。
他の記事で離婚して得たもの失ったものと言った記事を書いていますので、読んで頂けたら嬉しいです。
パニック障害を乗り越えて
2018年、5月の早朝5時ごろ、突如、息ができないと感じて救急車を呼ばないといけないと感じた経験があります。
その時は本当に怖くて、今日で自分の人生は終わりなんだなと思い涙が出てきたのを今でも忘れません。
その時は寝ることも怖く、また狭い空間や、トイレの孤独を感じる所ですら動悸と過呼吸におちいり、内科に通い、肺が悪いのか、心臓が悪いのかいくつもの回数を重ねて検査をし、パニック障害であるとのことから心療内科を受診。
毎日の安定剤を飲むようになり、今は体調も落ち着くようになりましたが、そういった経験から、人の命の大切さ、生きていることの幸せを痛感します。
死にたいと思うくらいにしんどいことや辛いことも、生きていく中でたくさん出てくると思いますが、辛い時期なんて一生続いていくものではありません。
必ず楽しいことや明るく笑える時がやってくるって思います。
死ぬかもしれないと本気で思った時、命の尊さや生きていることの幸せを心から感じ、生きている今を楽しむんだとパニック障害から学びました。
辛い経験も必ずプラスになる時がやってくる。今を明るく生きてけるように自分を大切にしたいと思うようになったきっかけです。
今となっては、逆に命の大切さを教えてくれた事に感謝もしています。
免許更新を忘れる
2018年の離婚した年に、まさか一度取った免許の更新を忘れてしまうといった失態を経験しました。
自動車の免許を取ると更新月の誕生月前には更新のハガキが届きます。
しかし、いろんな所に移り住んでいた僕も、住所変更をどこまでしていたのか分からない状態で、なかなか免許の切り替えが言ってこないなと思った時がありました。
その時にふと免許証を確認したところ、一年近く期限が過ぎていました。
その時は本当にゾッとしました。
免許証の更新を忘れてしまうと、過ぎた日数によっては、再度取得し直さなければなりませんので注意してください。
僕が初めて書いた記事で、中々大変さが伝わらないかもしれませんが、よかったらみてください。
この時に免許更新の大切さと、なかなか改善されない免許更新の通達の恐ろしさを同時に知りました。
今では、誕生日には免許証の確認を忘れないようにしています。
人生が変わる出会い
前会社を退社後に今の印刷会社で働いています。
やっぱり僕は、お世話になった印刷業から離れる事ができずにいます。
そこで出会った後輩の「フクスケ」。
勉強が好きな子で、毎日一生懸命勉強をしていて、いろんな知識もあります。
年下でありながら、いろんな事を知っている事に僕も尊敬していますし、なんでも話ができる信用できる人間の一人です。
そのフクスケとのエピソードは、自社の機械が壊れたことから始まります。
フクスケの最初の印象は、とにかく真面目で、工場で働くには大丈夫かな?っと言った印象の子。真面目過ぎてノートを必死に取っていた事を今でも鮮明に覚えていて、1ヶ月持ってくれるだろうかと思いました。
ある日、工場の機械が壊れてしまい、他の印刷会社に機械を使わせてもらうために出かける事に。
当時、他の機械を触れるのが僕以外いなかったことから、僕が出向くのは確定。
助手として誰かを連れて行かないといけない時に、仕方なく連れていく事になったのが入社したばかりのフクスケ。
道中何を話して良いのかわからず時間が過ぎます・・・。
そんな時にフクスケの方から、経営学の事を語ってきました。
当時、経営に興味があった僕もその話には真剣に耳を傾け、その日以来フクスケとは経営の話や、思考の話、印刷業の話など、毎日のように会話をするようになりました。
年下の子でも、自分より一生懸命勉強している姿に何かを学びたいと思い、苦手だったパソコンを購入して勉強する事を決意します。
僕が購入したのがMacBook Proです。
他の記事でMacを選んだ理由も書いておりますので、読んでいただけると嬉しいです。
そこからフクスケにパソコンの使い方や、その他にも今愛用しているガジェットの全てをフクスケと共に勉強しています。
ブログを始めたきっかけ
そんな中で、たまたま僕の今までの人生を話した時、突如「ブログを始めませんか?」と言われた事がありました。
初めはブログって何?っていうほどど素人で、書き方も全くわからない。
文章もきちんとできているのかもわからない。
文章を書くにも流れがあるようですが、僕には頭が痛くなるようなことばかりを言われます。
しかし、真剣に僕の為に自分の時間も割いて勉強して、それを教えてくれたりする姿に、僕も「期待に答えたい」「結果を出したい」と思うようになり、ブログを始めました。
また、ブログを始める事で、尊敬している前社長に事の真実と、僕の思いが届いて「いつか和解できるかもしれない」し、僕は人と関わるのが好きな人間なので、「世界の人とたくさんつながれるようになるかもしれない」それに、ファッション・カメラ・ガジェットが今特に好きで、好きなものを思い切って書く事で「同じ趣味を持った人たちとつながれるかもしれない」
自分が体験した病気や苦悩で、同じように苦しむ人にも何かプラスになってもらえるように。
挫折を経験しても、プラスの思考を持つことで未来は明るくなっていくんだと知ってもらいたいと強く思ってブログを開始しました。
ブログ名の由来
ブログの名前には”Gin8=じんぱち”とつけています。
意味合いは、今すでに繋がっている人、これから先に出会える人にも、『毎日少しづつでも人生が末広がりに幸せが広がっていきますように』と言った願いを持って
人生の”じん”
末広がりの”ぱち(8)”
と名付けました。
最後まで読んでいただきましてありがとうございました。